昭和43年3月27日夜の御理解


ここで信心の稽古をさせて頂く人は、もちろん金光様のご信心ですけれども、     金光様のご信心を頂いておるというても、やはり金光様のご信心の一部にしか過ぎない 信心をまぁ私が頂いておる訳でございますが、ここでは結局私の信心が基本になるもの、ね。やはりその親先生の心を信心を自分のものにして、それからめいめいの信心の個性と言うか、ものが、あ~工夫されなければならない。そういう意味合いでやはりここには、それぞれ、え~巡りの程度というか、んー違いましょうけれども、(  ?  )やはり私がもっておるような巡り。私が持っておるよな、まぁ良いもの、悪いものを、まぁ言うならば、供えた人たちがここに集まって来ると思うんです。
えー以前まだあのここに居る三橋先生が若い頃、頂いた御理解の中に久保山先生の信心をこれはあの三味線の聴取の方でくけれども、本調子、本調子型だった。       えー秋永先生の信心は二上がり。三橋先生の信心を三下がり。まぁちょうど、三味線には、大体その三つの調子があるんです。確かにあの久保山先生は、あー本調子型でしたですね。いわいる朝の御祈念前から出てきて、そして終日御用頂かれるというタイプであった。 やっぱり信心が本調子型である。そすと、おー秋永先生の事になってくると、ちょっと どっちかっちいうとその(笑い)あんたお調子者だからと言う私がこうやってやかましく言よったように、どっちかっち言うとその、まぁなんち言うんですかね。       二上がり型ですかね・・・。すとなんて言うんですかね、三橋先生の信心は、なんて言うんでしょうかね、本当にその信心の、まぁ(すい?)をもう内容にもっておるかのように見えるような信心でしたですね。先生が御結界なんかに行くと、付いとりますと、もう
その様子見ただけで、皆がおかげ頂くというくらいにあったです。まぁ言うなら、実に
そのまぁ(良きな?)先生でした。それが信心で段々こう、磨かれてまいりましたから そこに信心の、信心の中にもやはりその、そういうような大体が(水神?)ですから、 (水神?)の雰囲気というものをもっておりました。三下がりというのは、もう確かに 三味線でも(買うた?)ものとかね、やはりいきなものを弾くようにそう言う風に頂いた事があるんですけども、まぁその三人の先生方の場合がまぁ二上がり、本調子、三下がり。というように、それぞれのタイプではあるけれども、ならやはり基本にしたものは結局私の信心であったというか、私の信心の中にだから、本調子と二上がりと三下がりがあると言う事が言える訳なんです。それのどれかを皆さんが頂いておる訳なんですけれども、 為にはやはり、その基本になるところの私の信心というものが、まず一つマスター出来なきゃならない。て言うならばここで信心の稽古をするものは、金光様の信心をです、私を通して、私を研究する以外にない。これから外れたらもう脱落です。ここお広前では。 この御広前では。ですからいわいるよその信者さんでは、具合が悪いという、やはり私は親先生なら親先生とこう、親と子との繋がりが出来るような一つの情によって結ばれて 行かなければ、ここで本当の信心は体得できないという事。この頃からあの、古い三味線のお供えを頂いておったですが、それをこの頃からいろいろ、あの~どうがけとか、天神なんかみんな変えまして、ちょっと人前でも弾けるようにしてあった。
昨日、貞男さんの(  ?  )で(?)(ひがわの?)あれを使っとりました。   誰が折ったかしらんけれども、あなた一番大事な糸巻きを一本折って、あんな固いものをですねー、どうして折ったじゃろうかと思うんですけども、折ってしまっておる。   もうこれは三味線としての値打ちはもう、値打ちはないわけです。糸巻き一本折れたんですから。ところがその幸いな事にですね、えー、一の糸の糸巻きが切れてるんです。
だからもちろん一の糸がもういうなら(未の調子?)て言うですか、低~い調子で、(?)にも鳴ったけれども高くもされなければ低くもされないわけ。ね。けれどもその、一の糸ですから、ね。これが二やら三ならもう全然使われないですけども、一の糸ですから、その二調子、(?)に二も三も合わせれば、だから二上がり、本調子、三下がりなんでも弾けるという事になるわけなんです。ね。ですからここでは問題は私自身がね・・。例えば狂いさえしなければ、私の信心に本当に合わせようとする人のならば、かならず 三下がりなら三下がりタイプの人ならば三下がり。二上がりの人なら二上がり。    本調子なら本調子の、その名誉というものは妙なるまでに良い音がでてくるおかげが受けられるはずなんだ。ここに、ね、例えば何人今晩(  ?  )が三十人の人がそれぞれにやはり違うんです。けれどもどのタイプにか合うはずだ。ね。だけんそこは、私は必ず「久富繁雄さんのごつなかにゃいけん」とか、「久富先生の様にならにゃならん」とか、ね。「宮崎さんのようにならにゃきゃならん」と言う事はない。その人が成るのもの。 けれども基本にするものは、親先生である、ここでは。親先生の信心(一年?)とそのものが、基調にならなければならないという事ですね。ね。勿論その基調と言う事については、まぁこりゃ私の信心内容がですね。もう日々やっぱり違う。場合には、もう本当に ありがたい、勿体無いという一日である。ね。おそれおおいという一日である。
それが(のうこ?)の時がやっぱりいろいろある訳なんですけれどもです。ね。    ○私の信心の基調となるものは、やはり『ありがたき、勿体無き、おそれおおき』なのである。ね。そこから様々な、十人の人がおれば十人。百人の人がおれば百人の百人百様のおかげにも現れてくる信心のあり方もまた、変わってくるという事になる訳です。   ですからなんと言うても、ここでは、まず私の信心をやはり体得しなければ、ここでは、おかげは受けられないという事が言えますですね。どうぞ・・・。                                         けんいち